言葉はいつも想いに足りない

~きおくのきろく~

 職後、ヤマダ電機まで生DVDを買いに行く。
 店内にてものすごくかわいい子を見つける。小学4〜5年生だろうか。いやしかし半端なくかわいい。いやいや“かわいい”どころの話ではないかもしれない、くらいにかわいい。
 顔がかわいいのはもちらん、しぐさ、肌の色・質感、髪型、身長、肩幅、体型、服装…かわいくない部分は何ひとつ見当たらない。もう、存在そのものがかわいいのです。


 しばらく店内をついて回る。別に何するわけじゃないけれど、じーっと見ていたいのです、なぜってかわいいから(はあと


 でも平日の夜と客もまばらな店内でいつまでもウロウロしているのはさすがにあやしく、名残惜しさ全開の中、ほどなく退散する。


 チャリで帰宅する途中さっきの子に思いを馳せる…。馳せてる中、ひとつの疑問が沸いてくる。自問自答の扉が静かに開く。


 あの子と何がしたいのだ?


話がしたいのか? う〜ん…。
話したくないのか? したくないことはない…。
いっしょにどこか行きたいのか? う〜ん…。
行きたくないのか? 行きたくないことはない…。
チューがしたいのか? う〜ん…。
チューしたくないのか? したくないことはないけど…。
えっちがしたいのか? う〜ん…。
えっちしたくないのか? したくないことはない…ことも…ない…かなぁ…。


 では何がしたいのだ?


話もチューもえっちも積極的に「したい!」とは思わない。したくないことはないけれど、思わない。チューしたからどうなのよ?えっちしたからってどうなのよ?あの子とのチューは今まで自分がしたチューと何か違うの?きっとしてみればこんなものかって感じで今までのと何も変わらないのよ、実際。チューもえっちも何もかも…。


 では何がしたいのだ?


 ここで気がついた。
 そうなのだ、あの子と何かをしたいわけではないのだ。やりたいことといえば、ただ見ていたいだけ。いつまでもあの子をじーっと見ていたい。笑うとこ、怒るとこ、歩くとこ、遊んでいるとこ、寝ているとこ、いつまでもいつまでも、じーっと見ていたい…。それだけで十分に満足なのです。


 自分はあの子に何を求めているのだろうか?


 ここでさらに気がついた。
 自分はあの子に憧れていたのだ。憧れというと御幣があるかもしれないけれど、憧れは憧れ。あの子みたくなりたいという憧れではなく、あの子の持っている完璧さ、ローティーンの女の子が持つ未熟ゆえの完璧さ、に憧れるのです。
 きっとこの部分が自分のコンプレックスなのです。自分のコンプレックスとまったく正反対なあの子に憧れたのです。中途半端にではなく、真逆だからこそコンプレックスを忘れさせてくれるのです。だからいつまでもじーっと見つめていたいのです。


 自分のロリコンの正体は、コンプレックスの裏返しによる憧れだったのでした。


 みやたんへの想いも基礎はこれですね。


 すっきりしました。