言葉はいつも想いに足りない

~きおくのきろく~

 まず今の自分はどういう状態なのか考えてみる。たしかに日常生活は送れている。会社に遅刻することもなく、人とコミュニケーションもとれるし、食事もでき、4〜5時間寝れている。対外的には何もおかしいところはない。ではこのよどんでいる内面はなんなのだろう。8月にあの子のことを想いすぎてパンクしたこの頭は。
 このままの生活を続けていくのは限界と思う。
 大阪のあの日以来あの子には会っていない。今日で18日が経過した。そしてここ数日はあの子のことを想う時間がかなり減った。もちろん想わないようにしているのだけれど、頭に浮かんでもすぐに別のことを考えるようにしている結果、1日のうちでも自然に想うことは少なくなり、想ったとしてもそれはとても短い時間に留まっている、写真を見ても、ヤフオクで検索しても。このままずっと会わなくても大丈夫な雰囲気すら感じる(たぶん会わないほうがいいのだろうけど)。なんであの子のことをあんなにも好きになってしまっていたのだろうか。この問題の答えはここにある気がした。

 さみしいのかもしれない。
 人が恋しいのだろうか、一種のホームシックな気がする。ひとりのが気楽でよいと行動していたが、それももう。
 自分を支える杖をずっと探していた。そしてあの子に恋をした。依存して生きてきた。あの子のことを想うと幸せな気持ちになれて、毎日が楽しかった。それはきっと杖が見つかって安定して歩めていたからだろう。でもほどなくその杖はいつまでも自分を支えられるほど頑丈なものではなく、とても不安定なものだと気づきよろめく。でも安定していた時期が忘れられず、なお頼ろうとする。そして行き詰まった。

 世の中には知らなくていいことがたくさんあるように、分からなかったほうがよかった自分の気持ちもある。今は漬け物石で蓋をしてあの子のことを考えないようにしているが、分からなくていい自分の本心ではきっとあの子が大好きなんだと思う。でもあの子を支えにしての生活はもうできない。頼る杖が必要ならばあの子ではなく、別のものを探さねばいけない。あの子への想いを小さくするには、あの子への依存度を減らすにはどうしたらいいのか。他に好きな人を作るのがまっとうな気がする。そういうことだろうか。

 この数日で自分っていうものがほんとはどういう人間なのかだいぶみえた気がする。行動が人格である…そうなんだろう。
 僕の心はあの子を欲してはいない。依存する対象を求めているに過ぎない。あの子よりもっとそれに適した対象が見つかればあの子への想いはきっと消えてなくなる。みやたんへの想いがあの子で消えたように。
 それでいいんじゃないのかな。いや、それがいいんじゃないのかなって思う。
 人を好きになるってどういうことなんだろう。僕は今まで人を好きになったことがあったのだろうか、恋をしたことがあったのだろうか。理由は分からないけど、まだ無い気がしてならない。