言葉はいつも想いに足りない

~きおくのきろく~

 よくある話で「あと人生が24時間しかないとしたら残りの時間を何に使う?」というものがある。


 24時間しかない!どうしよう!?
と思い、あれやこれやと列挙してみる。読書、映画、観劇、サッカー、お笑い、音楽、ネット、おいしいものを食べる、会いたい人に会う、…。


 いろいろ書き出しても、24時間しかないのでこれは無理、これはいいやと減らしていくことになる。で残ったものはなにか?


 それ。その残ったものこそが自分にとっての重きなのではないのだろうか。


 たしかに24時間と限定した上での選択だが、いろんなものに手を出すからこそ、本当にやりたいことが見えなくなってしまうのでは。24時間でやれないものは、一生でもやれないのだ。


 読書が好き。本が読みたい。
 なんのために?
 知識を増やすために。いろいろなことを知りたいから。
 知ってどうする?なんの徳がある?知ったところで死んでしまえばなにも残らないのに。
 …。


 なにをやっても、なにに夢中になっても、死んでしまえば終わり。


 24時間以内ではやりたくないのに、時間を区切らなければやりたい。そんなものに意味はない。ただの時間の浪費だ。分母が「確定している残りの人生24時間」か「未確定な残りの人生○○時間」の違いでしかない。
 けっきょく、自分はまだまだ死なない、今はこんなことをやっているけど人生は長いのだ、死(終わり)は身近なものなんかじゃないって思っているのだ。自分を含めて。


 とどのつまりは、そういうことなんだな。