言葉はいつも想いに足りない

~きおくのきろく~

「悟り」についてまとめておく


 悟りとは、精神的・身体的に自由で束縛されていない状態のこと。
その昔、仏陀が悟った教え。


 本来の仏教=仏陀の教え


 その昔の仏教は今の仏教とはまったく違う。
細かい説明はしないけどね。



 身体面と精神面の2面に分けて考えることが出来る。



(1)身体の自由。
 「身体」というものがある限り、その限界からは逃れることが出来ない。
 例:空は飛べない、100メートルを5秒で走ることは出来ない


 →身体がある限り悟れない?


 →悟りを啓くには身体の束縛から開放されなければならない。


 →死ぬ?


 →死ねば身体の束縛からは解放される。


 →「身体の悟り=死」?







(2)精神の自由。
 あらゆる煩悩(無明)から解き放たれた状態。


 煩悩をまったく無くすことなど出来るのか…。



 煩悩とは欲。


 食欲、睡眠欲、性欲だけではなく、○○が欲しい、
 ○○になりたい、○○に行きたい、○○したい
 など「外向きのエネルギー」全てを指す。




 欲には順番がある。


 何か欲しいものがあったとしても、それより欲しいものが
 出来てしまえば、最初に欲しいものはそれほど欲しくなくなる。


 →「より上」が出来てしまえば「それ」の価値はなくなる。


 →言ってしまえば、欲なんてそんなもの。その程度でしかない。


 この点を理解できると煩悩をかなり抑制することは可能。


 →でもまだゼロではない。




 煩悩のまったくない状態とは、有り得るのか有り得ないのか。


 何かに集中していてメシも食わずトイレにも行かず、
 気がついたら数時間が経過していた、なんてことがある。
 友達と遊んでいたりしても、本に熱中していてもあったりする。


 集中して何かをしているとき。その間!
 それはあらゆる欲がなくなっている状態ではないのか。


 その状態(集中?)を続けることが出来れば、その間は悟りの境地なのではないか。



 (1)と(2)で身体と精神を別にして考えてきたが、この集中の状態下では
 精神だけでなく身体も開放されているのかもしれない。
 なぜならば身体の拘束に気がついた時、集中状態は切れてしまうのだから。



 この仮説、まだ確信はなし。どこまで進めるか。





 智慧


 この世界を生きていく中で1番大切なもの。


 智慧の基になるのは、たくさんの知識。


 →「自分の考え」につながる。


 たくさんの知識を基礎として、自分なりの答えを導き出す。




☆それに対して、自分はどう思うか、どう考えるか





追記
「悟りたい」「解脱したい」という想い、それ自体「欲」ではないのか。


悟りたいと思えば思うほど、悟りからは遠ざかる。


仏陀の言う「中道にこそ」の意味は、ここにもあるのか。





しばらく仏教(仏陀の教え)について考えてみることにするのです。