言葉はいつも想いに足りない

~きおくのきろく~

 11日、群馬県高崎市で小学1年の女児が隣りに住む男性に殺される事件が起きました。


 共同通信社のニュース記事を転載。

群馬県警高崎署は11日、県営住宅の同じ階に住む小学1年の女児を殺害したとして、殺人の疑いで群馬県高崎市北久保町、会社員野木巨之容疑者(26)を逮捕した。調べでは、野木容疑者は11日午後2時40分ごろ、同じ階に住む会社員浜名朗さん(38)の長女愛ちゃん(7つ)=市立豊岡小学校1年=を自宅で殺害した疑い。野木容疑者は「仕事に行こうと玄関を出たら愛ちゃんと会い、いたずらしようとして騒がれたそうになり、部屋に連れ込んで首を絞めた」と供述しているという。愛ちゃんは午後2時35分ごろ、県営住宅のエレベーターで友達と別れたが帰宅せず、母親の祐子さん(36)が同3時半ごろ110番し、署員が捜索を始めた。(共同通信)


 運が悪かったとしか言いようがない、と思う。


 被害者家族の気持ちを察する(経験のない自分が思うよりももっとずっと深いのであろうが)と、「運」で片付けていい問題ではない、のかもしれないけど。
でも自分は「運」だと思う。


 言いたいのは被害者の運ではなく、加害者の運のこと。


 加害者は今回ほんとに運が悪かった。
(もちろん事件がバレてしまって運が悪いというのではない。)


 この事件は計画性のあるものではなく、偶然起きたものだと思われ。


 もし加害者が玄関を出たとき被害者に会わなかったら、
 もし加害者が玄関を出たときに被害者と2人きりにならなかったら、
 もし加害者が玄関を出るのが1分遅かったら・・・。


 要素はいくらでもある。


 偶然が偶然に積み重なり、必然を生んでしまったのだ。




 言い方を変えます。


 もし自分が加害者と同じ趣味を持っていて、
玄関を出たところで可愛いなと思う対象にばったり遭遇、
見渡す限りまったくの2人きりであったら、
加害者が一線を踏み越えてしまった「場」に置かれたら…。


 わたしはぜったいに加害者と同じ真似なんかしない!
なんて言えるだろうか。


 100に1つの可能性もない!
なんて心の底から言えるだろうか。


 自分は言えない。


 それでも一線を超えることは有り得ない!
とは言えない自分がいます。


 たくさんの偶然が重なり、体調・精神状態が少しでも傾いていたら…。
自分も同じ過ちを犯してしまうかもしれない。




 だから自分は加害者を非難することはできない。


 自分と加害者はきっと何も変わらない。
同じ穴の狢なのだ。


 そう思うから。




 だから加害者のことを「運」が悪かったと思う。


 「運」なんかで片付けられる問題ではないのかもしれない。
でも「運」でしか片付けられない問題もこの世にはある。


 そうとでも思わなければ落とし所の見つからない問題はこの世界には確実に存在すると思うから。